2005)平成17年3月11日 No.2636回 2004〜2005年度(第34回会報)

会員数 103名  出席者 58名  出席率 85.3%  前回修正出席率 89.7%

 

MU:小沢徳和、小針直哉(2回分)

ビジター紹介(森田浩敏親睦活動委員長)

岡川光佑様(宇都宮西RC)、柿沼 賢様(宇都宮西RC)、兪 培蓉様(米山記念奨学生)

 

快出席(宮田初男出席委員長)

篠崎昌平会員(22年)、横堀晃夫会員(21年)、斎藤一郎会員(21年)、佐藤登美雄会員(1年)

 

会長挨拶(矢嶋昭司会長)

 幹事、副幹事が休みの為、私が報告させて戴きます。

先だって、中越地震の義援金の御寄附を戴きまして地区の方から報告が届きました。3,445,632円集まり、まとめてガバナー会の方に送金しましたと報告が来ております。スマトラ沖津波の義援金2,003,747円同様に日本事務局の方に送金致しましたとの事です。

 本日宇都宮西ロータリークラブから地区大会のアピールにおいで戴いております。皆様の御席にポスター、ちらしを置させて戴きました。出来るだけ多くの方に出席して戴きたいと思います。どうぞ御協力をお願い致します。

 100年委員会地域の先生という事で、3月16日豊郷中学校で8時40分から宇都宮ロータリークラブメンバー何人かで専門職についての職業講座という事でやる事になっております。

 

地区大会PR(岡川光佑宇都宮西RC会員、柿沼 賢宇都宮西RC会員)

 ただいま御紹介戴きました、宇都宮西ロータリークラブの岡川と柿沼でございます。本日は地区大会のキャラバンという事で参りました。今回の地区大会はガバナーの方針もございまして、出来るだけ手づくり大会にしようという事で一生懸命準備しております。そして、1つのテーマと致しまして「感動、感謝、感激」という様な事をテーマとして、大会を共有したい、尚かつ市民の皆様に感謝の意を捧げたいと言う様な事をテーマとして大会を実行する訳です。プログラムに従いまして、4月8日(金)は地区記念ゴルフ大会です。4月9日(土)は宇都宮市文化会館で市民公開講演、13時開演にて、NHKエグゼクティブアナウンサーの国井雅比古さんをお迎えして開催されます。先着1800名様です。4月10日(日)は小澤昭一さんをお招き致しまして、「あすの心」というテーマで講演して戴く事になっております。

皆様の御出席をお願い致します。

 

米山記念奨学からの報告(小林利也米山記念奨学会員)

 早いもので米山奨学生 兪 培蓉さんのカウンセラーをさせて戴いて一年になります。2月26日(土)地区米山奨学生との今年度の終了式と歓送式が行なわれました。

 当クラブとして本日最後の奨学金の授与が最後になりました。会長より授与して戴きます。これからはロータリーの学友会の籍に移られます。

 

 

 

兪 培蓉様挨拶

一年間がそろそろ終わりとなります。私にとって貴重な体験と経験をさせて戴きました。この一年間宇都宮ロータリークラブの皆様に大変お世話になりました。宇都宮ロータリークラブのロータリアンの皆様と接する中で、尊敬の気持ちを持って、きちんと自分の考えを伝える大切さ、思いやりの心を持って他人に奉仕する奉仕の精神の心を学び直しました。一年間の御指導御支援を心より感謝致します。どうもありがとうございました。

ニコニコBOX委員会(小沢徳和ニコニコBOX委員長)

誕生祝:矢嶋昭司会員、篠崎昌平会員、北村光弘会員、上野憲示会員、佐々木光俊会員、関根烝治会員、佐竹隆史会員、貴志浩三会員

結婚祝:中田敏良会員、関口快流会員、永田正一郎会員、貴志浩三会員

快出席:篠崎昌平会員

奥様誕生祝:神宮 晃会員

野田正教会員:2月13日(日)母の死去に際しましては、多くの方からご厚志頂きました。誠にありがとうございました。

岡 政秀会員:ナベサダのライブ、30年振りに行く事ができそうです。

親睦活動委員会報告(森田浩敏親睦活動委員長)

      4月8日(金)地区大会ゴルフ大会がございます。

      市内9ロータリークラブ親睦ゴルフ大会が5月3日宇都宮カントリークラブで開催されます。皆様の御参加をお願い致します。

      渡辺貞夫コンサートが明日行なわれます。7000円のところ3500円です。まだ席がございますので受付でうけたまっております。

卓話「宇都宮はよきところ…」

(有)藤原設計事務所所長 宇都宮まちづくり推進機構グランドデザイン推進委員会委員長

藤原宏史会員

 “宇都宮はよきところ”とは、随分能天気な言葉かもしれぬが、昨年、NTTの工藤さんか関電工の富岡さんが、退会のご挨拶で言われた「イヤイヤ赴任、泣く泣く離任」、の言葉は宇都宮を言い表すに、“言い得て妙”の言い回しであると感心した。

 これは“宇都宮はよきところ”の実証であるが、実は今から65年前にこのように感じ、それを色紙に残した方がいた。「宇都宮はよきところ きほひと云ふ宿に 志ばしいこひぬ」これは作家の林芙美子が、当時池上町であった「きほひ」という小料理屋で色紙に書いた言葉である。当時夫敏緑氏は衛生兵として宇都宮陸軍病院に勤務していた。(*1)

 貧しさと孤独の中に放浪生活を続けた作家をして、“よきところ”と言わしめたまち、宇都宮。しかし現在このまちをこのように実感出来る人がどれだけいるであろうか。このように宇都宮をよきところと言う目でみると、以前から思っていた事だが、ある疑問について考えてみようと思った訳である。それは大変単純で素朴な疑問だがこの“宇都宮”と言う地名そのものである。その語源については二荒山神社からきており下野一の宮から転訛したものと考えられると言う。(*2)何故転訛したのか。大体栃木弁で“い”を“う”へと転訛するであろうか。又古くは“池ノ辺”と呼ばれ鬱蒼とした森であったことから、とも言う。ならば何故“宮”が付くのか。素朴な疑問が湧く。

 実は“宇都宮はよきところ”として広い関東平野の一角にあって北には日光、那須の美しい山並みを望み、地震や台風等の災害も少なく、その北限であり南限でもあるといわれる豊かな植物相をもつ自然条件や、それ故でもあるが、旧石器時代や縄文時代、古墳時代を代表するような遺跡が存在すること等を挙げようとしたのであるが、逆に言えばここに何かヒントはないだろうか。

 栃木県の旧国名は下野国である。大化の改新以前は群馬県とともに毛野国と言われた。この毛野国について興味深い記述がある。(*3)『三世紀代にできた中国の「魏志倭人伝」に「その南に狗奴国あり、男子王となる…女王に属せず」とある狗奴は毛野であり、北関東の古代国家(もちろん部のように小さい国)をいったという説もあって、……上野、下野両国は、むかしの毛野国で「古事記」によれば、崇神天皇の皇子豊城命によって統治され、その後を子孫がうけついだとしるされている。そうした訳でこの国には、他の諸国と違った特異な文化があったと見られるが、それを証拠だてる一つに、毛野両国を併せれば一万以上にのぼる膨大な古墳があり、前方後円墳もまた数百基という数である。つまりここは当時の一つの王国を形成して、文化の大きなステーションであったと思われる。……関東地方の古墳では埴輪の数はすこぶる多く、ことに毛野の形象埴輪、そのなかでも人物埴輪や家形埴輪がおびただしいことは、ほとんど全国の60〜70%をしめているといってよい。』

 実際この本の書かれた後に発掘された壬生町羽生田の富士山古墳出土の家形埴輪はその大きさやつくりから埴輪の横綱といってよいものである。

 こうした事実から“王国を形成して、文化の大きなステーション”との記述は信じるに足るのではないだろうか。また毛野の語源について、毛は野蛮を表わすとの説もあるが、これは“豊かな”の意味ではないかと思う。豊かな実りをもたらし広い野をもつ国、これが毛野国ではなかろうか。

 もう一人梅原猛説を記しておこう。(*4)氏は古事記及び日本書紀について、その製作主体は天武天皇の手になるものでも6世紀に天皇制強化のために集められた伝承集でもない。藤原不比等、この人を除いて記紀を成立せしめた人は考えられない。その内容は律令天皇制をかくれみのとした藤原氏の政治的権力を合理化しようとするねらいをもつ、と述べている。又古墳時代は永生信仰が崇拝された時代であり、古墳は不死願望の表現であった。しかし記紀編者はこうした死後世界、永遠世界の信仰を軽蔑し、古墳は旧来の愚俗として否定している。しかしかかる思想の変化にもかかわらず、記紀の中に永生信仰の若干の名残りを見出すことが出来る。例えば神武天皇の兄の三毛入野命(ミケイリノミコト)が常世の国へ行かれた話である。…これが梅原説である。

 ここからは私の推論である。その名から推測して、三毛入野命その人が毛野国の祖であると考える。そしてそうだとすれば常世の国とは毛野国をさすのではあるまいか。常世の国とは言うまでもなく不老不死の国である。そしてその都が宇都宮だと仮定すれば立派すぎるどころか、まさしくこれ以上ふさわしい名は無いと言って良いだろう。

 事実毛野国一帯では古代6世紀頃まで、魏志倭人伝にいう狗奴国を想起させるほどの豊かな生活が営まれていたのである。

 さて神武天皇とは記紀に記されている初代天皇である。ただしその後第9代開化天皇までは皇室の起源を定めるために創作した人物であるともいわれる。有名な江上波夫の北方騎馬民族征服王朝説は第10代崇神天皇を想定したものである。一方前述の梅原説は神武東征の話は何らかの意味で歴史を反映したものであるとし、崇神帝は武力支配の行き詰まりから起こった混乱の収拾策として宗教による統治政策へと転換した天皇ではないかと言う。事実古墳がつくられるのはこの時代からである。

 私はいずれにせよ永生信仰思想が形成され、毛野国が常世の国とされたのは王朝の成立時期と同じくすると考える。しかし確固としたものとして定着するのは崇神時代であると思う。それは毛野国を統治し、二荒山神社の主祭神として崇められているのが崇神天皇の第一皇子である豊城入彦命であるからである。

 もう一つの理由がある。それは日光という知名である。この名は補陀落フダラク⇒フタラ二荒、これを音読みして日光とした、と言われる。補陀落とは天竺にあると信じられていた観世音菩薩の霊場であり、常世の国信仰と一体の伝承である。補陀落渡海伝説にみられるように、多くの上人が常世の国を目指して渡海を試み、命を落としたと伝えられている。(*5)

 男体山を補陀落山に見立てるという発想は、下野国が常世の国であればこそであり、だから後年勝道上人は14年の歳月をかけても男体山登頂を果たしたのであろう。

 そして私は記紀が成立した頃には常世の国は特に下野国のみを指すようになっていたのではないかと考える。梅原説に言う不比等は藤原鎌足の子である。鎌足が藤原姓を名乗る前は中臣姓であり、常陸国鹿島の神祇を司っていた家系である。常陸国鹿島から見る景色は近くに筑波山を望み、遠くに白雪を頂く日光連山、特にその主峰である男体山は当時であればより大きく、神々しく眺められたに違いない。そしてそうしたことは子の不比等に語り聞かせたことであろう。だから不比等が毛野国常世伝承を知ったとき脳裏に刻まれたのは下野国のそうした印象であったのではなかろうか。

 そう考えると宇都宮の二荒山神社も、そこが常世の国の都における補陀落山であることから名づけられのだと思う。

 さてこうした記述の残る記紀に大きな役割を果たしたであろう不比等はこうした伝承をどう考えたであろうか。この国の東に常世の国がある、ということは統治者として民に知られてはならないことではあるまいか。しかし全く封印することも出来なかった。そこには下野古麻呂の存在もあったかもしれない。だからこれは代々の統治者のごく少数しか知ることの出来ないトップシークレットとなったのではなかろうか。

 こう考えると、下野薬師寺に戒壇院が設けられた事も、源頼朝や徳川家康が二荒山神社を深く崇敬した事も、そして何よりも家康は東照宮を日光に建立しようとした理由も明瞭になってくるのである。更に憶測すれば秀吉によって宇都宮氏が改易された事や、釣天井事件によって本多正純が改易された事もこのトップシークレットに関わりがあったのかも知れない。

 そしてこのトップシークレットを完全に封印した人物、それは三代将軍家光と天海僧正ではないかと考える。この両者が正純を改易させた張本人であり、家光自身は日光に霊廟大猷院を建立して永遠の生の享受を計ったが、常世の国に関する一切を封印したのである。そしてその証拠が東照宮の三猿なのではないだろうか。だからその後毛野国一帯、特にその都である宇都宮を為政者が気に止める事も無く、人々の脳裏からも消え去ってしまったのであろう。

 私は歴史家でも考古学者でもない。だから以上の仮説は想像に過ぎない。しかし全くの絵空事でもないように思えるのだ。

(*1)「野州百話」(読売新聞宇都宮支局編)

(*2)「宇都宮郷土史」徳田浩淳著(再編復刻板)

(*3)「風土記日本4関東・中部篇」(平凡社)

(*4)「塔」梅原猛著(集英社文庫)

(*5)「Dの複合」松本清張著(新潮文庫)

本日は御静聴ありがとうございました。

卓話予定

3月25日  「情報セキュリティ」

東日本電信電話(株)栃木支店支店長 岡 政秀会員

4月 1日  「私の読書とロータリー」

公認会計士石島吉造事務所所長 石島吉造会員

会報委員 菅野 政仁 会員

写  真 野田 正敬 会員

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