2006)平成18年9月5日 No.2706回 2006〜2007年度(第9回会報)

会員数 105名  出席者 64名  出席率 77.1%  前回修正出席率 77.1%

誕生祝(親睦活動委員会 松井公彦委員長)

 齋藤一郎会員、三柴富男会員、柿沼光信会員、福嶋寿克会員、半田道胤会員

 松井公彦会員、青木栄久会員、辻 博明会員、増渕好次郎会員、小沢徳和会員

結婚祝(親睦活動委員会 松井公彦委員長)

 佐竹隆史会員、阿部秀人会員、西村 毅会員、田村 実会員、石下年資会員

親睦活動委員会報告(松井公彦委員長)

 本日、皆様の会社、又は御自宅に秋の親睦ゴルフコンペの御案内を出させて戴きました。参加可能な日をいくつか丸をつけて事務局の方に返信をお願いしたいと思います。10月29日以降開催の日の都合のいい日に丸をつけて下さい。是非皆様の御参加をお待ち致しておりますので宜しくお願いします。

幹事報告(石島 洋幹事)

 本日第3回理事会が開催されました。9月1日現在会員数105名です。7月31日アルファクラブの細川会員が退会されました。親睦活動委員長の細川さんの替わりに松井公彦委員長が承認されました。サンラフェールロータリークラブと交流して35周年になります。今年は会長、幹事で10月21日からサンラフェールロータリークラブを訪問する予定です。この度の訪問はサンラフェールロータリークラブとの交換学生プログラムについてディスカッションをしてこようという形です。又、35周年のお祝いをして帰ってこようという段取りになっております。皆様に後程御連絡を致しますがこのサンラフェールプログラムに関しまして今後どうしたら良いか御意見がございましたらアンケートの形でお配り致しますので御自由に御意見を述べて私の方にお送り戴ければと思います。

 現在クラブ現況報告書を作成中です。宮本会員の方にお願いしております。まだ原稿等を出していらっしゃらない方は直接宮本会員の方にお願いします。

 宇都宮ロータリークラブの会員の平均年齢が出ました。8月15日現在60.6歳です。

 9月26日伊藤永峯第3グループAガバナー補佐の訪問日です。その際、第3回クラブ協議会を予定しております。10月10日落合雅雄ガバナー訪問日です。その日は写真撮影等ございます。どうぞ御出席の程宜しくお願い致します。

ニコニコBOX委員会(ニコニコBOX委員会 稲葉清一委員)

誕生祝:三柴富男会員、半田道胤会員、齋藤一郎会員、増渕好次郎会員、小沢徳和会員、柿沼光信会員

結婚祝:西村 毅会員、石下年資会員

奥様誕生祝:小沢徳和会員、石下年資会員

佐々木光俊会員:8月31日をもって代表取締役社長を退任し会長に就任致しました。

        とりあえず代替わりが完決しました。これからも宜しくお願いします。

 

 

プログラム紹介(プログラム委員会 青木直樹委員長)

 いよいよ9月になって秋風が吹いている季節になりました。本日は「看板の話」を(株)しばた工芸の柴田彰夫会員にお願いしました。宜しくお願いします。

卓話 「看板の話」

               (株)しばた工芸代表取締役社長 柴田彰夫会員

 只今、御紹介いただきました、柴田彰夫です。本年度、辻委員長・岡崎副委員長のもとニコニコボックス委員会に配属されています。ニコニコBOX共々どうぞ宜しくお願いします。

 入会したばかりで、初めての方もおられると思いますので、大変恐縮ですが少し自己紹介をさせて戴きます。私は昭和33年5月11日生まれで、今年48歳になりました。御本丸で生まれ、御本丸のお堀や山を、庭として育ちました。宇都宮RCの同年代には、ニコニコボックス委員会の辻委員長・岡崎副委員長・多田村委員が同じ年です。他には、町田さん・松本さん・早生まれのようですが石島幹事も、33年生まれと親睦手帳で確認しました。また有名人では、桜田淳子やチャゲ&飛鳥、本県出身の森晶子、巨人軍の原辰則監督、ミュージシャンの小室哲哉、マイケル・ジャクソンなどがいます。今の所、私の人生と何の関わり合いもない人々ですが、同じ時代背景に育っています。昭和33年生まれといえば東京タワー・日清のチキンラーメン、ホンダのスーパーカブそして聖徳太子の1万円札があります。また長島茂雄が巨人軍に入団したのもこの年でした。

 私は格闘技が大好きで、7月の稲野先生の卓話を楽しく聞かせて戴きました。小さな頃はプロレスファンで、特に吉村道明の、一発逆転の回転海老固めにテレビの前で何度か溜飲を下げた記憶があります。しかし一番好きな格闘技は、ボクシングでした。あのストイックな所がたまりません。特にパナマの英雄「石のこぶし」ロベルト・デュランが大好きでした。

 

 私の商売は看板業で、私で3代目になります。大正6年祖父が御本丸で柴田塗装店として創業したのが始まりです。その後、柴田塗装・看板店、柴田看板店そしてしばた工芸に至っております。もともと地方の都市や町では看板専門としては商売が成り立たず、塗装と看板を一緒にやっている所が一般的でした。今でもたくさんあります。親方と弟子、職人の家庭で育った私の苦手な物は、人前でスピーチをする事です。失礼な話し方になるかも知れませんが、宜しくお付き合い願いたいと思います。

 そもそも看板はいつの頃からあるのか調べてみました。日本では白鳳時代まで遡ります。701年の「大宝律令」のなかで、藤原京の東西で開かれている市の各店舗に、取扱商品名の書いた木札の掲示を義務付けたことに始まります。その木札が日本で最初の看板であったといわれています。

 しかし、文盲の圧倒的に多かった当時、律令で規定した難しい漢字表記の看板は、買い手の利便の為ではなくて、専売制による統治経済と税の徴収のための規制だったと考えられています。

 商人・商家が、自らの意思で広告の意識を持って暖簾に目印をいれ、また看板を出すようになったのは、室町時代からのようです。

 なぜ中世の京の経済発展に比べて、看板が多用されなかったかは、当時の店舗形態にあると思われています。私達の知っている「お店」と言う言葉は、見世棚 −見せる・世間に・棚と書きます− 「お店」は見世棚に由来した物でもともと商品を陳列して販売する台を指していたらしいとの事です。当時はどこの店舗も道路に台を張り出してその上に、履物や器などの日用雑貨や、魚・果物などの食材を載せていました。台の後ろには壁や仕切りがなく、室内につながっていて、物売りの男や女が客の対応をする。または、職人が座って仕事をしている所も多い。いわゆる製造直売といった所のようです。現在もこの様な形態を残した商店が特に地方では、残っていると思います。この形態は、商品の売買のもっとも原始的で、しかも今日も続くもっとも普遍的な売買の手段であると言われています。

 では、当時看板を上げているのは、どのような店かと言うと、客がいない時には何の店か分からない、表から見た限りでは、何の商いをしているかが分からない場合に看板を用いられたようです。例えば髪結床、酒屋、占い師、筆屋などがそうで、髪結床の看板は鋏や櫛、酒屋は「酒林」と呼ばれる杉の葉を束ねた看板を上げていたそうです。

 鎌倉時代に入り、初めて暖簾に目印が入り、はり札というコミュニケーション手段が起こり、室町時代には、壁面に取付けた看板、店先に吊るした看板が登場しました。しかしまだまだ文盲の多かった当時は、すぐに分かる即物的な商品模型や、商品を書いた絵による表示の暖簾や看板がほとんどだった様です。

 江戸時代に入ると、一大消費地となった江戸の活発な商業活動から、上方、江戸を問わず看板も多様化して、暖簾は水引暖簾や、なが暖簾、日除け暖簾として定式化して、看板は商品を模型化したもの、又は商品との因果関係に由来した「判じ物看板」や「語呂合わせ看板」などを経て、文字による看板の展開となって来たようです。

 上方の商人は江戸に送る商品とともに看板も送り付けるようになり、これを「くだり看板」と言いました。この「くだり看板」は看板の形態を整え、自分のところの商品の権威性と耐久性の必要から、木彫り・漆塗りの技法が用いられました。また、それまでは商品名だけを記してあった看板に、自らの屋号を併記させるようになりました。

 

 判じ物看板・語呂合わせ看板の例

弓矢を看板として使っている商売は、風呂屋 弓射る →湯に入る

饅頭屋・餅屋の店先に馬の像を置く →あらうまい・うまいと解きます。

八里半または十三里と書いた看板は何屋 →焼芋屋

   栗と似ている。九里よりうまい十三里。

春夏冬 二升五合 →商い益益繁盛

 

 江戸の店の大型化は、看板も実用一点張から大店としての威厳を損なわないある種の風格・格調が要求されるようになりました。また競って豪華な贅を尽くした看板を作り、幕府より何度か奢侈禁止令の対象にされたようです。また、当時から道路利用して建てる建看板は幕府の許可が必要だったとの事です。

 余談ですが、よくテレビの時代劇に出てくる「遠州屋」「越後屋」などと書かれた横長の額看板が、軒の上に掲げられているのを見ますが、それはテレビのセットの中だけの話で、実際には江戸時代の看板は通常、縦型の看板で文字は縦書き、建物から直角の道路に突出して取付けていたようです。

 軒の上に建物と平行に設置できなかったのは、山号などを記した寺院の扁額などと同じ形式になるため、例外を除いて、許可されなかったといわれています。

 明治維新によって、看板にも大きな変化がもたらされました。まずローマ字の使用があげられます。横文字の使用は看板文字を横書きにして、看板の形を横長にしました。このことは看板を軒上に建物と平行に設置するスタイルにつながり、江戸時代までの慣習を破る大きな変化だったといえます。また、看板製作に適した材料として、ペンキが使われ始め、ブリキやトタンが登場しました。このことは今までにない大型看板を作ることを、可能にしました。

 日本で始めてネオンを灯したのは1918年(大正7年)の銀座の谷沢鞄店だとされています。その後の試行錯誤を経て昭和初期からネオンの使用は飛躍的に増加していったとの事です。戦後、看板は益々大型化し、意匠を凝らし、派手になる傾向に拍車がかかるようになりました。

 当時の日本を代表するネオンは、昭和28年に建造された、銀座の森永キャラメルの地球儀型ネオンといわれています。私も見ましたが、直径12メートルの球状のネオンが廻っている様は、大変驚いた記憶があります。

 昭和期の看板の代表はネオンであった事は間違いありません。

 

 今日では、日進月歩で材料・技術・メディアの開発が行われて、多種多様の材料・技術・メディアが登場してきます。

 材料では、今まで主役であった塗料が、既にフィルムに変わり、アクリルがFFシートへ、ネオンがLEDへ、蛍光管がEEFL管へ変わりつつあります。

 技術的には、デジタル化が進み、もはや看板屋も装置産業になってしまいましたインクジェットを始めとする各種印刷機・LEDによる映像機器・彫刻機などが既に普及し始めました。

 メディア開発としては、ようやく宇都宮でも認められるようになった、ラッピングバス。フロア広告・アドレール・飛行機で空に文字を書くスカイメッセージ・ステーションジャックにいたっては目に入る全ての物が広告として使用されています。

 

 急速な進歩は、私ども看板業としての位置を不明瞭な物にして、方向性を見失わせているような気がします。先にあげた新しい物・技術への対応をしていくことは、もちろん不可欠だと思いますが、看板の原点を大切にしていきたいと思います。

 

「看板は、商家の願い。商売繁盛の祈りを込めて看板を掲げます。」

 

私は、この一節のなかに看板の原点があると思います。

そろそろネタも尽きました。皆様の一斗二升五合を御祈念申し上げまして、看板とさせていただきます。

本日は有難うございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

会報委員 渡辺 健夫 会員

写  真 野田 正敬 会員

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